a profile
Oh! I’m willing and able
So I throw my cards on your table
“ I wanna love you” Bob Marley
「僕はそうしたいし 自信がある
だから君に僕のカードを開いて見せるんだ」
こういう精神でいきたいものです。
散らばったカードをホームページに集めました。
さらにいろいろなカードを加えて、
実りあるものにさせていくつもりです。
よろしく。
プロフィールに代えて

1951年、東京生まれ。ではあるが、その後、大阪、埼玉、名古屋、東京などを転々としたため、故郷や地元という感覚を持ち合わせていない。成人してからも根無し草のクセが直らず、海外放浪を繰り返し、ついには家族共々、海外に移住するに至ってしまった。

2005年からは神奈川県の逗子市に居住しているが、それまでの人生に置いて転居した回数を数え上げてみると、なんと21回に達する。ここではないどこか、を求めてさすらったあげくである。居場所探しに苦労したというのが実情だった。

人生の決定的な転機は、青春時代の放浪の旅だ。大学在学中にタイへ短期の旅行に出たのが始まりで、そのままドロップアウト、2年間不帰の客となった。タイからインド・ネパールへ、さらには中近東に足を伸ばし、持ち金がなくなるとヨーロッパで皿洗いをし、アフリカを回った。貧乏旅行の走りだ。

日本に戻っても、もはや居場所はない。で、行き残した中南米へと再び旅に出た。この旅は1つの成果を結んだ。中米、特にグァテマラのインディオの諸部族が織りなす織物に惹かれ、交易の仕事を始めたのだ。トライバルアートへの開眼である。旅人は商人となった。

仕事はそこそこうまく運んだが、旅の虫に誘われるまま、数年で仕事をたたみ、再々度旅に出た。旅の途上で妻が妊娠し、どこで産もうか、バリかインドかネパールか、それともロンドン、ニューヨークかと産み場探しの世界一周旅行となってしまった。

結局日本に戻って産むことになり、神奈川は葉山近辺に居を構えた。以来この地域とのつながりを保ち、言わばご当地となった。

植木屋修行を2年間続けた後、再び古巣のトライバルアートの交易に戻る。今回のフィールドの中心はタイ北部の山岳民族。6年間通い詰めて仕入れをした。

85年あたりからアフリカ音楽に入れ込むようになり、それが元でアフリカ自体にも強い興味を抱き始め、ついに仕事のフィールドをアフリカに移すことになった。フランス語圏の西アフリカが中心だ。アフリカも部族社会で、トライバルアートという仕事の分野は変わらない。

ついでに家族共々、パリに引き移ることにした。88年のことだ。狭い日本にゃ住み飽きたじゃないけど、日本脱出への挑戦だ。パリに拠点を置きつつ、アフリカで買い付け、日本で販売するという渡り鳥生活が続いた。

アフリカはタフでハードで、同時に心休まる。いやというほど鍛えられると同時に、とことん楽しませてくれた。アフリカンアートにはダイナミズム、造形力、スピリチュアリティー、汲めど尽きぬ魅力が潜んでいて、すっかり虜になった。

パリには17年暮らしたことになる。勝手知ったるホームタウンとなった。特に最後の7年間を過ごしたモンマルトルは我が懐かしの街、今は離れて郷愁を誘う。

パリ滞在中97年に一冊の本を書いた。タイトルは「トランス・アフリカン・レターズ」。(アマゾンリンク)青春期のアフリカ放浪体験をもとに、手紙形式でつづった旅物語である。開高健賞奨励賞という文学賞をいただいた。
物語を書くことは僕の活動の柱であり、処女作以降も執筆活動を続けているが、残念ながらいまだ日の目を見たものはない。Never give up !

そうこうしているうちに、トライバルアートは世界各地で枯渇した。もはやオリジナルなものはどこにも残っていない。アフリカンアートも同様である。(責任の一端は私にもある)。ライフワークとなっていた交易業は終わりを告げる時がきた。

同時にパリ生活にも終止符を打つことにした。パリに連れて行った子供たちも成人し、子育てに区切りがついたことだし。これ以上長逗留するには及ばない。引き際のタイミングが大事だ。
2005年帰国し、21度目の引っ越し先として逗子市を選んだ。再起動して、新たなステップに入る。

ご覧のごとく、執筆に励み、米作りに精を出し、相撲観戦にいそしみ、という毎日を送っている。その他に市のゴミ審議会の委員もやりだした。映画デビューの話もある。ボブ・マーリー全曲弾き語りという壮大なプロジェクトも立ち上げた。残るは収入だ。